| [ 4 ] 「はあ…こんなにも全力で、しかも長いこと…必死で走ったのは初めてだ。…はあ。」 正太郎は、街道の途中で、道幅の狭い林道に入り込み、どうにか役人の追手を振り切った。 街道を離れると、やけに静かになった。追手の怒鳴り声も聞こえてこないし、このあたりには人も居ない。穏やかな風があたりを吹き抜け、身体に心地いい。 頭の中で激しく響く耳鳴りの中、しばらくは何も考えられなかった。 それは身体の疲労のせいもあったが、それよりも、さっきまで起こっていたことが信じられない出来事の連続だったからだろう。 互いに殺し合わなければならない、そう悟った桐子の目はやけに意志がはっきりしていた。その眼差しは一生忘れられないものになる。 …残してきた桐子のことが気になる。今頃泣き崩れているだろう。 …変な気を起こさなければいいが…。 しかし、今更どの面下げて戻ることが出来ようか。もう後戻りはできない。あてはないが、とにかく、ここからもっともっと離れなくては。 正太郎が歩き出すと、周囲の蝉達が一斉に鳴き出した。木陰に多少遮られているとは言え、夏の猛暑が再び襲いかかってきた。 この付近の街道は、途中で二手に分かれる。一方は港のある海へ。もう一方は、この地方で有数の都へと続いていた。 身を隠すなら真っ先に人の多い都なのだろうが、正太郎は海へ向かう街道を少しはずれてわざと道亡き道を進んだ。 眼前の山々はだいたい二日もあれば越えられるだろう。山を越えれば海が見える。 せめて死ぬときは海を見てからにしよう。 正太郎はそんなことを考えながら歩いていた。 もともと、こうなってしまったら、ここで生きていくことなんかできないじゃないか。どこか静かに死ねる場所を求めて歩きまわるだけさ。 生きる気力もないくせに、役人に捕まって殺されるのは嫌だなんて、自分勝手な気がしないでもないが、死に場所を求め歩いている自分はどこか妙に滑稽な感じがして笑えてきた。 今年の夏はとりわけ暑く感じる。何もかも忘れたくなるくらい暑かった。 正太郎がいくら剣術が上手かろうと、野伏(のぶせ)の経験などあるわけでなく、人気のない山中を歩くのは全くの素人であった。 街道をさけるため敢えて道のないところを歩き、一晩で足を痛めてしまった。加えて夏の猛暑が激しいのでのどの渇きも激しく、疲労に一層拍車をかけた。 さらに、運の悪いことに沢に降りてみてもそこには水が流れていないことが多かったのである。 (こんなところで死ぬのは予想外だな…) 方角をいつ、どこで間違えたのか、海へ向かうつもりが、一向に海へ出られない日が続いた。そして、この山中でのたれ死ぬかもしれないと思うほど、正太郎の疲労と飢餓は限界に達していた。 正太郎はやっとの思いで杉の生い茂る尾根を越えると、近くの杉の幹に寄りかかった。喉は渇いているのに体中から汗は流れる。この体のどこにそんな水分があるのだと不思議に考えていたら、しばらく聞いていなかった音を聞いた。 … さー 風の音にしては変だ。風が吹いていないからだ。 まさか…!? 痛む足を引きずりながら坂を下ると、確かに聞こえる。水が流れる音だ! 沢を目指して降りる途中、正太郎は重大な見落としをしていたことにまだ気づいていなかった。 じゃりっと足下をならす音。そこには細かい砂利が敷き詰められている。 「!」 正太郎が降りてきたところは今までずっと避けてきた街道であった。 「楠正太郎、覚悟!」 まずい!と思ったのも束の間、すぐ脇から馬に跨った役人風の男が太刀を抜き放って突進してくる! ドシュッ 避けきれるわけがなかった。足の痛みをこらえることと、歩くことで精一杯だったからだ。 右の二の腕を深く切り裂かれ、うずくまる間もなく、背中へ強烈な斬撃が襲う。 「とう…こ…」 近すぎたために桐子の気持ちに気づいてやれなかった無念を思いつつも、ここで死に様をさらしてたまるかと、残る力を振り絞って目の前に広がる深い谷に向かって、落ちた。 正太郎が再び目を開けたとき、そこは山中にもかかわらず、幻想的な風景が広がっていた。 谷の底に落ちてきたのだろうが、せせらぎの音と、辺りを白く染める濃霧。ここは死後の世界かと思わせるような風景。動こうとして全身に強い痛みが走るのを感じて、自分はまだ死ねていないことに気がついた。 (…ついにここまでか…) やがてここにも追っ手が来ることだろう。戦場で見たような、重傷で呻く敵兵にとどめを刺すように、役人がためらいのない太刀の切っ先でこの心の臓を貫くに違いない。 (水が欲しい…) 正太郎がまだ無傷の左腕で這いながらせせらぎの音へ近づこうとしたその時、眼前に人の気配を感じた。 … …役人ではなかった。正太郎は思わず息をのんだ。 枯れた木の幹にもたれかかるように座っている人物は、両方の足は折れ、衣服はところどころ引き裂かれ、皮膚は至る所で腐敗が始まっていた。 年齢はおそらく同じか少し上。立派な出で立ちをしていたであろうその人物は身につけていた物、包みや家紋入りの刀などがそのまま傍らにあったことから、殺されたものではなく、転落事故がもとで命を落としたものだということが容易に想像できた。 ふと、目の前の包みが視界に入った。ここで死んだ彼がどういう人物だったのか知りたかったからだ。 書簡と思われる巻物が一つ。中身を覗いて、この死者が生前どんな人だったのかを色々と想像してみた。 想像すればするほど、目の前の「それ」が彼のなれの果てだということ、そして自分が同じような姿になるまでを考えると、急にぞっとしてきた。 (死ぬと言うことは、こういうことなのか?) 痛みがあるにもかかわらず、正太郎の背筋が凍り付いた。今まで抱いていた「死ねば楽になる」なんてことを考えていた安直な気持ちが一気に吹っ飛んだ。 死後の世界については僧の説法をよく聞いていたからよくわかる。今まで自分がしてきたことが正しいことだと胸を張って言える状況でもない。むしろ人を殺し、人を悲しませ、人に恨まれるようなことをした思いの方が強く、このまま死んだとしても救われるはずもない。 自分はどうしようもない愚か者だと心の底から思えてきて、悲しくなって涙が出そうになった。 (まだ死にたくない…) (もう一度やりなおせたなら…) 勝手なことを思っているのは承知しているが、そう思わずにはいられない。 しばらく後悔の念に苛まれている間に、正太郎は一つの結論に達した。すると今度は笑いがこみ上げてきた。それからすぐに笑い声が嗚咽に変わった。 幼い頃、家族を失ったとき以来、二度と泣くまいと誓ったはずなのに…彼は声を出して泣いた。
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