【STAGE 2】




8年が過ぎた。クリス21歳、夏。



孤児院に近い、小さな町の運送会社に入ったクリスは、豊かとはとうてい言えないまでもなんとか自力で生計を立てていた。

しかし、食事や家事の細々とした所は、はっきりいって面倒だと思うおおざっぱな性格である。孤児院を出た当初は仕事こそきちんとこなしたものの、住んでるアパートは最初の3ヶ月間で、埃と洗濯物とファーストフードの残骸に占拠されてしまった。

かろうじて横になって眠る場所だけは確保しておいたが、職場の得意先の彼女と出会わなければ、はたして今ごろどんな惨状になったことか。

クリスは仕事が終わった後、2時間のトレーニング・・・といっても単なるランニングだが、欠かさず行っていた。

幼心にあこがれていたプロレスは今でも好きだし、キングのことは無条件で崇拝しているが、その世界に足を踏み入れることはないだろうと素直に割り切っている。 第一、今は生活するのに手一杯の状態だ。

でも身体を動かすのは好きだったので、このランニングだけは毎日こなしていた。

ランニングから帰ってくる途中は、いつも自分の会社の前を通ることになる。ある日、同じように前を通りすぎようとしたら、横合いから突然呼びとめられた。

会社から出てきた女の子には見覚えがあった。事務方の仕事をしているらしく、よく会社に出入りしている得意先の子だった。

「・・・良かったら、これ飲んでみてよ」

彼女は突然そう言って、ラベルのない、一本のペットボトルを投げてよこした。オレンジ色のおいしそうなジュースに見えた。

状況が飲みこめないままなんとなく立ち尽くしていると、彼女が続けてこう言った。

「私の家、この近くなのよ。あなた毎日走ってるでしょ? だからそれ、さしいれ」

「・・・・サンキュ」

少し休憩のつもりで、ボトルのふたを開けて一息にあおる。ところがそれが想像もしない突拍子もない味で、いきなりむせかえってしまった。

激しく咳き込むクリスを見て、相手はおかしそうにくすくすと笑った。そのことを十分予想できた楽しげな笑いだった。

「こ、これはいったい・・・?」

眼を丸くして、まじまじと手の中の飲み物を覗きこむ。見た目はどこからどう見てもオレンジジュースだ。

「うん、おばあちゃん直伝の、疲労回復ドリンク。オレンジジュースに、リキュールとおばあちゃん秘伝の薬と、あと日本のウメ?をミックスしたやつ。最初はぐっとくるけど、あとから効くよ」

悪気のない顔でにっこり笑われると、どういう表情をしていいか選択に困った。しかし喉ごしを過ぎると、アルコールの心地よい酩酊感と、なにやら酸っぱいような、でもどこかすっきりした後味が残って、不思議と気持ちよかった。

その表情の変化を見届けて、相手が満足そうに微笑む。と、手もとの時計に目をやり、いきなりあわてふためいた。

「・・・あ、しまった。もうこんな時間でしょ!私会社にいったん戻らなきゃなんないのに。じゃーまたね!」

「あ、ちょっと!」

呼びとめる間もなく相手は会社の脇に止めてあった社用車に乗りこみ、手を振ってあっというまに走り去ってしまった。





・・・2度目に彼女に出会ったのは、なんとも意外な場所だった。クリスが今でも時々訪れる、実家ともいえる孤児院に顔を出したら、シスターと彼女がお茶を楽しんでいる最中だったのだ。

そこで初めて、クリスはシスターから学生の頃からの友人だという彼女、アニーのことを紹介してもらった。

クリスとアニーは、遊んでいる子どもたちを遠巻きに眺めながら何気ない話題に花を咲かせた。仕事のこと、生活のこと、趣味のこと、それから目の前で楽しそうにはしゃいでいる子どもたちのことに話題が移り、アニーはクリスの境遇を知った。

「そうしたら、親は今でも誰だかわからないの・・・?」

その件に関して、クリスの心はとくに痛まない。孤児院の暮らしは、その喪失感を埋めてありあまるものだった。

「そうなんだ。メリルやキングなんかはこっそり・・・僕だけに限ったことじゃないけど、僕たちの肉親を探しつづけている。キングなんかはけっこうすごい情報網を持っているみたいだけど、僕と、あと何人かだけがどうしてもわからないらしいんだ」

過去に遡って、思い出すのはいつも雪のあの日のことだった。

優しい光。天使の歌。神の使いにも見えた・・・虎を頭に抱く、父親以上に思える存在。

「でも、こんなに大勢の家族がいるって、いいわね」

クリスは驚いて側の女性を見下ろした。彼女は視線をクリスから子どもたちに転じている。

「わたしはずっとおばあちゃんと二人暮らしだったから。・・・こんなにたくさん家族がいたら、きっと楽しいだろうなぁ」

アニーの両親は、彼女が幼い頃に事故ですでに亡くなっている。そして祖母もまた、去年風邪をこじらせて他界していた。

「親でいるほうは大変だろうけどね」

クリスはそう言って、暴れんぼうの男の子を眺めながら苦笑した。アニーもつられて思わず笑ったが、その言葉の本当の意味も当然把握できた。先ほどメリルから、この孤児院が赤字経営で危ないことを告げられたばかりだった。

・・・毎日の仕事の合間に、何度同じことを考えたことだろう。

孤児院自体は裕福ではない。しかし、大人たちが決してそれを悟らせはしなかったのだ。

楽しい毎日と、大人になることへの期待。子どもたちの心を占める、甘い果実のような想い。

肉親という存在を失った痛みをできるだけ癒そうとするため、それはキングやシスターメリルなどのの計り知れない努力によって贈られていたものだったのだ。

働く身になって、一人で生きる身になって初めて、そのことにようやく気付いた。

・・・子どもたちを見守る者として、この孤児院で育ち一人前になった者として、この窮状をなんとかしてあげたいと心から願っている。だが、彼らはあまりにも無力だった。

二人はしばし、子どもたちの元気な姿から目を離さなかった。





二人の関係はこうして始まった。つきあいを始めるまで、そう長い時間はかからなかった。

どちらも一人暮らしのため一緒に食事することが多くなり、2年を過ぎる頃にはアニーは自分のアパートを引き払ってきた。

孤児院を訪れる機会も、前以上に多くなった。ささやかな生活費の中から、おやつだのおもちゃだのを必ず持ち寄った。そんなものが、孤児院の行く先に良い影響を与えるとは到底思えなかったが、メリルを励ます意味でも月に一度は顔を出すようにしている二人だった。

一度だけ、メリルからその話を聞いたキングが、二人のアパートを訪れたことがある。クリス孤児院を出て、実に4年後のことであった。

ドアのベルを開けたアニーは、その男性のことをもちろん知らない。

「クリスはいるかい?」

立派な体格の、40ぐらいの年頃の男性だった。アニーに言われて玄関にやってきたクリスも、最初それが誰かわからなかった。アレックスと名乗ったその名前に、どこかで聞いたことがあると思いながら。

「え、えーと・・・」

「またなんか技をかけてほしいかい? わんぱくクリス」

にやりと笑ったその口調。今まで枯れていた泉から水が溢れるように、記憶が蘇る。そうだ。アレックス・フェルダーとは、彼の本名ではないか。

「キング!」

気がついたときには、子ども心にかえって抱きついていた。決して小さく、軽くはないクリスの身体を、キングは軽々と受けとめた。

それからの時間は、楽しいひとときだった。キングがアニーに、昔コイツはわんぱくで一番のトラブルメーカーだった、などと言ってクリスを慌てさせたこと、ごく最近リリアという女の子が、シスターにあこがれて同じ道を選んだこと、今年の孤児院の農園は豊作で、子どもたちがはしゃぎながらジャガイモやたまねぎの収穫に取り組んでいることなど、話は尽きる気配がなかった。

日が暮れてからは、アニーが気をきかせてアルコールを持ち出し、男二人はさらに盛りあがった。

その日結局、キングは二人のアパートに泊まることになった。クリスはすっかり酔いつぶれかけている。彼のベッドの側にキングは横になり、明かりを消した中でキングはつぶやいた。

「俺ももうすぐ40男だ。いつまでも第一線にいつづけることはできん。正直な話、もし俺に何かあった場合なんとかしてくれないものかと思っていたが・・・君にはすでに守るべき相手がいるんだな。この話は重荷になるか・・・」

クリスはすでに寝息を立てていた。





台所の後片付けをしていたアニーは、すでに寝たはずのキングから突然「話がある」と言われて驚き、なんの話かと訝った。だが「・・・クリスの両親のことだ」と聞いて、途端に酔いが覚めた。

直接本人に言わず自分に言うからには、何か理由があるのだろう。アニーは洗いものの手を止めて、キングに向き直った。

聞くところによると、クリスの両親はすでに離婚しているらしかった。

父親は結婚してから間もなく多額の借金を抱え、それがクリスを手放す要因になったらしい。

クリスを孤児院の近くに置き去りにし、夫婦は借金取りから逃げるようにアメリカ中を転々とした。その間も借金は増える一方で、やがてある時を境に母親は実家に帰り、父親のほうは行方が知れなくなった。かなり危険な筋からも金を借りていたという事実を踏まえると、おそらく生きてはいないだろうと思われた。

残る母親も、辛い生活のためか精神的な病気にかかり、今では結婚したことも、子どもを産んだことも、記憶の片隅から排除されているような状態とのことだった。

アニーはしばらく無言だった。確かにこれでは、本人に言えるはずもない。そしてこれが今回の訪問の、真の理由だったのだ。

「・・・あなたに感謝します、ミスター・アレックス・・・いや、キング」

「本当は俺一人の内に納めておこうと思った。だが、あなたに会って気持ちが変わった。クリスに事実を話すかどうかは、あなたに任せることにする。いつかクリスが知りたいと思ったとき、俺が近くにいるとは限らないからな」

キングはそこで何かを思い出したように、笑った。

「そうだな、あの子に、まさかこんなことを頼める人が現れるとは・・・幸運な奴だよ」

その幸せを己のことのように喜ぶキングを見て、アニーはなぜクリスがこの人のことをずっと敬いつづけているのかが少しだけわかった気がした。





翌朝、キングはまた会いに来ると言い残してアパートを去り、クリスは再会の日を迷わず信じた。





・・・・・・それがただ一度の嘘になろうとは、このとき知る由もなく。





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