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一時間は駆けていただろうか? ジューディスは息も絶え絶えになりながらも、剣を握る手を弱めずに足を運んでいた。その前を、シグマが黙々と進む。
別れたのは巧を奏したようだ。こちらにも何人か追手は来ていたようだが、彼ら二人の疾走に追いつけないのか、殺気はすでに感じられない。何とか振り切れたようである。
「もう大丈夫か?」
「・・・かな」
安堵の息を吐いて、足を緩めた。一度歩調を収めると、2度と歩けないのではないかというような重みが両足にのしかかる。彼らは山を登るルートを取ったが、途中から深い霧が出て、足元がぬかるんでいたために非常に走りにくかったのだ。
「みんな大丈夫かな・・・」
「大丈夫だろ。きっとあそこで会える」
いつも冗談交じりの青年だったが、このときばかりは真剣に応えた。自分自身に言い聞かせているのだろうと、ジューディスにはその心の内が手に取るようにわかった。
そんなシグマの足が、何かにぎくりとして立ち止まる。
「どうした?」
シグマの背に隠れる格好になっていたのと、霧がたちこめていたためジューディスはそれに気づくのがやや遅れた。シグマが、ほんのわずかに立ち位置をずらす。ジューディスを、さりげなくその背に庇うために。
「ちっ、ついてないな。ケイブ・ベアだ」
「そんな!」
街道から離れすぎてしまったようだ。もとは野生の熊だが、中には半分魔物化して、より凶暴になった熊がいる。それがケイブ・ベアだ。久しぶりの獲物を前に今にも襲いかかって・・・いや、考える間もなく、獣はこちらに向かってきた!
「逃げろジュディ!」
その言葉を聞いて、ジューディスは猛然と反発した。
「あんたバカ!? こんなの、たかが盗賊一人で倒せるわけないでしょう!?」
「お前こそ、なにバカなこと言ってるんだ。誰も殺そうとなんか思っちゃいない。ほんの少し足を食いとめてから行く。おまえ、足限界なんだろ? オレはまだ大丈夫だ。だから先に行け!」
言い返せなかった。ただでさえ、山道では獣のほうが足は圧倒的に有利だ。二人が背を向けて逃げ出しても、今の自分では足手まといになることは明白だったからだ。
そして、共に逃げようと懇願したところで聞き入れる男ではないことも、彼女はまた長い付き合いの中で知っていたのである。
「・・・あそこで待ってる。必ず来い」
「ああ」
「お前のような奴でも、いないとテュリスが悲しむ」
「ああ」
ジューディスは少し迷って、たどたどしく口に出した。
「・・・お前がいなけりゃ・・・私だって・・・」
それ以上は言葉にならなかった。シグマは熊と向き合いながら満足そうに微笑む。背を向けているため、その表情をジューディスは見ることができなかった。
「そんなこと言ってる間にさっさと行け!」
その叱咤に、ジューディスは弾かれるように駆けだす。己が助かるために、という思いは頭から吹き飛んでいた。自分が早く遠のけば遠のくほど、シグマもこの敵から逃れられる、その一心だった。
彼女は痛む足も忘れて走った。彼と共に逃げたい衝動を必死でこらえながら、ただひたすら前だけを見つめて。
山を越え、たどりついた最初の集落で、1週間、ジューディスは待った。 ここに立ち寄る可能性は大きかったからだ。 だがシグマは来なかった。
別の方角からあそこに向かったのだろうか・・・
ジューディスは集落を後にして、約束の場所へ向かった。
「あの街」へたどり着いたのは、シグマと別れてから2ヶ月後のことだった。
そこには誰もいなかった。 すぐには来ないことも十分考えられたので、ジューディスは待った。
しかし2年が過ぎ、3年が過ぎても、仲間の誰ひとり、姿をあらわさなかった。
追手に捕まったのか、それとも逃げおおせたのか、殺されたのか・・・状況を整理することを、彼女の理性は頑なに拒否した。
「約束・・・したのに・・・」
今となっては認めざるを得ない、想い人に向かって、そう罵り続けて5年があっけなく過ぎた。
もう、来ない。
・・・いや、別の街にいるのでは?
さまざまな考えが錯綜するうちに、待つことに耐えられなくなった。
「どこかで、きっと会える」
己にそう言い聞かせて、彼女は街を去った。
彼らに再び出会うまで、もう2度と仲間は持たないとの決意と共に。
そして、あの日から9年・・・
旅の途中で、色々な知識を得た。その中で特にジューディスの気を引いたのが「鋼鉄の薔薇団」という物騒な連中の噂話だった。盗賊団と言えば彼女らも大差ないのだが、その者たちはまさしく「どんな人間でも殺して盗む」真の盗賊団として恐れられていた。
その連中が、あの最後に踊った街に・・・自分らが襲われたあの街の、裏の世界で根強い勢力を張っていというのである。
関係あるかもしれない。ないかもしれない。
だがジューディスは、その名前を深く心に刻んだ。
今、ジューディスはヴァネッサという街に来ている。長居するつもりはなかったのだが、たまたま泊まった宿屋にいた主人の娘が、ふと懐かしい仲間を思い出させた。
「・・・プリマ・・・?」
よくなついていた少女がもっと幼くなった、そんな感じの女の子だった。
ある時、少女の持っていた人形が壊れていたのに気付いて、久しぶりに優しい気持ちになりながら人形を直してやると、少女は屈託ない笑顔で「ありがとう!」と元気に礼を述べた。
その夜は様々なことが思い出され、何年かぶりに声をあげて泣いた。
それからなんとなく、その場所に滞在している。
長逗留の中で、宿の主人とも親しくなりかけた頃・・・
「なにやら宿の外でもめてるね。これじゃ出られないな」
宿泊客の一人が、窓から外を見て愚痴をこぼした。ジューディスも外を覗き見ると、確かに人垣ができている。なぜ揉めてるかまではここではわからない。
しばらくすると問題が片付いたのか、人々は方々に散って行った。大事に至らなかったのなら、誠に喜ばしい限りであろう。なにせ、先日この宿屋で殺人が起こったばかりなのである。
・・・まあ、そのことは特に自分には関係ない、そう思っていたところに。
「あの・・・すみません」
突然の呼びかけに驚いて振り向くと、まったく見ず知らずの、可憐という言葉が似合う女性が自分に話しかけていた。
「お願いがあるのですが・・・」
〜to be continued 「Sages of Iris」