・・・今でこそあまりにも見慣れた、少女と、そのかわいらしい生き物の姿だが、当然の如く両者は生まれた時から側にいたわけではなかった。
「食べる?」
少女が差し出した肉まんを、パンダは大きくて柔らかい身体をうれしそうに揺らして、手を伸ばした。 その頭を撫でながら、暁雨は後ろを振り返った。
見えるのは、懐かしい中国の森ではない。
今の彼女の生活の場となっている日本での学校が、静かに鎮座していた。
ずいぶん遠くに来たもんだ・・・彼女は遠い日の自分を、記憶の片隅に蘇らせた。
大好きな「ワン・ジンレイ」おじいさんに、幼い頃から拳法を教えこまれていた暁雨は、遊びの延長ぐらいにしか想っていない稽古を毎日積んでいた。
実のところ師の目からかなりの素質が見こまれてはいたが、たかだか7才にも満たない少女には、流派の継承だの、真の強さだのに興味があるはずもない。
ただ、同じ年頃で少女とまともに渡り合える・・・遊び相手となる子供はほとんどないに等しかったので、稽古を積む時のほとんどは、師のそばか一人かのどちらかだった。
ある日。
朝一番で師がくる予定だったのでがんばって早起きをし、家の庭で軽く身体をほぐしているところに、母親から師の到着が少し予定より遅れると告げられた。
ちょっとがっかりした少女だったが、この日は常にない快晴で、朝の涼しい空気がひどく心地よかった。 そこで少女は、時間があまっていることもあり一人裏山の笹林へ足を向けた。
この山は敷地的にはそれほど大きくないが、れっきとした彼女の両親の所有だったので、勝手に歩き回って怒られることはないのだ。
時には歩き、時には立ち止まり、型をつくる。右足を振り上げて、上段から振り下ろす。身体をかがめては手刀を繰り出す。地に手をついては、軽々と宙を舞う。
そんなことを繰り返しつつ森と戯れていると、かすかに生き物の気配を感じたのだ。
己の身の安全をはかるという考えは、この幼い少女の頭にはない。好奇心だけが足を動かし、気配の方へ近づいてゆく。 と、少女は大きな目をさらに大きく見開いた。
思わずその場に身体をすくめて、大きな音を立てないよう動きを止める。
それは、まだ子どものパンダだった。子どもといっても大きさは暁雨の一回りくらいは大きかったので、少女には十分親パンダに見えただろう。それが、1頭。すやすやと心地よい寝息を立てているのだった。
そのあどけない表情。
もっと側で見てみたくて、少女は静かに・・・静かに、近づいて行った。身軽が信条のその身体は、そよ風ほどの気配も立てず、生き物へと近寄ることができた。
ためらいもせず、少女はその寝顔を覗きこんだ。 その瞬間。
寝ぼけたように、生き物が目を開いた。開いて・・・己のすぐ側に何かがいることに気付いたらしい。 首を傾げながら、今までよりははっきりと目を開いた。
それと、少女の目が合った。
「・・・がぁぅ?」
驚きとも、疑問とも、威嚇とも違う、なんとも間の抜けた声。 少女も首を傾げて、目を合わせたまま、相手の反応をただ待った。
そして、子パンダは・・・驚いたことに、またその目をそろそろと閉じたかと思うと、再び寝息を立てはじめた。どうやら、敵意のカケラも持ち合わせてなかった少女を、仲間か何かと勘違いしたらしい。
あるいは、再び襲ってきた睡魔に深く考える面倒くささを放棄したのかもしれなかった。
暁雨はにっこり笑った。子どもらしい、無垢な笑顔だった。
子パンダの側に、同じようにして身を横たえる。 頬に、子パンダの腕がかすかに触れた。ふわふわでとても気持ち良かった。
朝早起きしたのと、さっきまで跳ね回ってたのとが心地よい疲れとなり・・・木々の隙間からさしこむ陽の光が暖かくて、急速に眠気を誘われる。
5分とたたないうちに、少女は子パンダと同じように寝息を立てていた。
親パンダは焦っていた。不覚にも、朝起きたら子どもの姿がなかったのだ。 目が醒めてからずっと我が子を探しまわっていた。
本能と呼ばれるもののおかげか、親パンダはまもなく、健やかに眠っている子の姿を見つけ出した・・・共に眠る、人間の、幼い子と一緒に。
その姿を見た瞬間、我を忘れて飛び掛りそうになったが、よくよく見てみると人間の中でもかなり幼い・・・自分の子と同じくらい・・・もののようだ。
子パンダも、少女も、まるで共に在ることがあたりまえのようにすやすやと眠っている。
警戒心をにじませながら、慎重に1頭と1人に近づいた。子がまず、その気配に気付いて目を覚ました。母親の姿をみてうれしそうに吼える。
少女もその声を聞いて、目をこすって身体を起こした。
そうしたら、すぐ側にびっくりするほど大きいなにかがいたのだ。
恐がる間もなく、ただ呆然とその場に座っていると、子パンダが親に近寄り、身を寄せて再び横になった。
またまた眠りに落ちたらしい。 その様子を見て、ようやく状況が把握できた。
お母さんが来たんだ・・・帰ったほうがいい、のかな?
いまだに寝ぼけてきちんと働かない頭で一生懸命考えているところに、親パンダが手を伸ばした。
そのまま叩きつければ、少女の頭など一撃で粉砕してしまうだろう大きな手は、少女の襟元をそっと掴んで己の胸元に・・・我が子の側に引き寄せた。
少女と子を、共に抱きかかえるようにして、親もまた眠りへと身をゆだねた。
暁雨は今まで以上にびっくりして、あっけにとられて、硬直した。だが、ふわふわに押し付けられて、やがて素直に身体を預けた。
・・・目が醒めて家に帰り着いたのは、よりにもよって陽が真上を通りすぎた後のこと。
大人たちをさんざん心配させた少女は、あのあたたかい感触を後々まで忘れることはなかった。
あれからおよそ10年が経ち、ふとしたことから日本の資産家「三島平八」と知り合った暁雨は、日本の高校に転校することになった。
転校した一日目。その日の驚きを、彼女は今でも覚えている。
グラウンドの隅。大きめの檻におとなしくしながら、こちらを物珍しそうに眺めているパンダを見たときの驚きを。
「・・・また、大会があるんだって」
今では、少女と大人の狭間にいる暁雨は、校舎を見上げたまま彼女の「親友」であるパンダに語りかけた。
パンダは甘えるように身をすりよせながら、その言葉を聞いていた。
「仁、どこにいるのかな・・・」
今はここにいない同級生を想う。
仁が姿を消して、2年。ただ単に、子どものまま無邪気に毎日を楽しんでいた日々は、もうない。 だが、遠い昔から彼女の中で変わらない、確かなものすらなくなったわけではないのだ。
「きっと大丈夫。だよね?」
その問いかけに・・・希望に、これからも変わらず側にいるだろう「親友」は、そんな彼女を励ますように、元気に吼えて答えたのだった。