超上級B〜夢を駆けぬけて



その日の彼は予選の真っ最中だった
決して大きくはないが、国内で行われるその大会はレーサーへの登竜門としてひそかに知られている。
無事に予選を通過し、本選のことだけで頭がいっぱいの彼の前に、
妻と学生時代からの親友が立ちふさがり、車を降りた彼に向かって開口一番怒鳴りつけた。
「あんた・・・なんで・・・なんで今まで気付かなかったのよ!
あんたの重荷になるのがイヤで、絶対黙っている性格ってことくらい!!!」
・・・なんのことだよ。
震える声で尋ねた彼に、彼女は一つの病院の名前を挙げた。
外で車を待たせてあるからと・・・
彼はヘルメットを投げ捨て、レーシングスーツもそのままにその場を駆け出した。



―――心にぽっかり穴があいたみたいね
妻は白い牢獄の中で柔らかく笑った。
それが比喩でもなんでもない事実であることを知らされ、言葉が出なかった。



・・・アメリカへ渡って環境を整えて数百万。いざ手術となると一千万ほどの金が必要になるという。
妻を諦めるなんてことは、最初から頭になかった。
安定もせず、いつ芽の出るかわからない彼に、
「私はあなたの夢を叶えるためにいるのよ」
そう言ってくれた妻は、彼を支えるすべてと言ってよかった。

―――どうやったら助けられる?

二つだけ、思い当たる方法があった。
一つは今回の本選で勝って・・・ずっと勝ちつづけること。
だが彼にとって、これは妻の命をチップとして白黒賭けるのに等しい。
もう一つ、もっと確実な方法はある。だが・・・



郊外の総合病院、妻は陽に当たりながら本を読んでいる。
呼びかけようとしたら、横合いから子供の大きな声が病室に響いた。
「あ、ホントにレースのお兄ちゃんだ!すげー!!!」
驚いて振り向く。目を輝かせているその子の周囲には、いろんな車のミニカーが並べられている。
あっけに取られた様子の彼に、妻は肩を震わせて笑った。

「あなたの話をしたらすごく喜ぶのよ」
入退院を繰り返しているその子は、あるレースのビデオを持っていた。
―――うちの旦那さんはね,そのレースに参加してるのよ。
妻が教えると、すぐにビデオを端から端まで見直して、名前を見つけて相当喜んだらしい。
「それからずっと、パソコンとかでずっとお兄ちゃんのレースをチェックしてるよ」と聞いて驚いた。



「だからね」
妻は一息ついて、笑みを絶やさずに言った。
「あなたは走ってなきゃダメ。
お父さんに頭を下げて、会社を継ぐなんてこと。考えちゃだめよ」

今度こそ本当に顎が外れるほど驚いて、妻の顔を間近から覗き込んだ。
そう。夢を諦めて、車を降りること・・・それがもう一つの方法だったのだ。



「あのね」といたずらっぽく前置きして、妻は夫名義の通帳を差し出した。
いつの間にか、新車一台買えるほどの金額が蓄えられていた。
「本当はね、貯めたお金で車を買えればって思ってたの。ほら、夢だった赤いフェラーリ。
でも・・・あなたには走っててほしいし、かといって私も死ぬつもりないし。
この分と、あと少しがんばれば・・・ね、使っちゃってもいい?」
妻の意図は明らかだった。命も夢も手放すつもりはないのだと。
あまりに多くの出来事が怒涛のように押し寄せてきて、思わず俯いてしまったが、
やがてその表情とは裏腹に、胸の奥にはかつてない闘志が宿る。
「?」
無言で立ち上がるのを、妻は怪訝そうに見つめた。
彼はその子の傍に行って、懐にあったレーシンググローブを取り出してみせた。
少年はボロボロになったそれを大喜びで受け取って、手にはめる。
「今回勝ったら、君にこれをあげる。だから、応援しててもらえるかな?」
今度は少年があっけに取られる番だった。ぶかぶかのグローブと、彼を交互に見た。
だが次の瞬間、首が折れそうな勢いで元気に頷いた。
「うん!絶対絶対絶対勝ってね!」
「ああ、約束だ」



その後「病気の子に汚れたグローブを渡すなんて!」と怒鳴られてひどく後悔したが、
そう言う妻の顔は晴れやかに笑っていた。





―――『裏ストレート手前の右コーナーをトップで立ちあがるナンバー5!
首位を独走するも、ヘアピンやシケインの処理に微塵の甘さもありません。
周回を重ねてなお素晴らしい集中力です!
最終コーナーを回った!二位以下を大きく引き離し、今フィニーーーッシュ!』



表彰台の一番高い場所から、二人へ、
きっとメッセージを送ってみせるよ。

・・・これからも。何度でも。





モドル